バイアグラが入ってたんです。中国何千年バイアグラを使ってたとは考えられない ..
野生動物は知っていた、自然の偉大な治癒力を!
野生動物たちに、こんな健康の秘密があったとは! チンパンジーが食べていた葉に驚異の薬効を発見! ゾウが飲んでいた洞穴の水に含まれていたものとは? アザラシが「ひなたぼっこ」をするわけ。土を食べるヒツジ、塩舐めや泥浴びをするシカ、果実を食べて酔っ払うヒヒ……「現代人はほんとうに健康なのか」、疑問符を投げかける。
書評にて紹介されています。日本経済新聞11/2,読売新聞12/7、サンデー毎日12.21号、北海道新聞12/7「現代の人間の健康保持に欠落しているものが見えてくるような気がする」(中川志郎氏)
★横尾忠則さん(美術家)「私のおすすめ」(「i feel」出版部50周年記念号より)★
「 わが家の猫は時々庭の草を食べて吐いたりしている。また体調を崩すとジーッと同じ場所で何日間も身動きしない。そして自然に病気を治してしまう。動物の自然治癒力である。
この『動物たちの自然健康法』にはありとあらゆる動物がありとあらゆる方法で自らの力で病気と闘い、病気を克服してしまう感動的な話が沢山語られている。
この本は動物の話であるが、人間が忘れてしまった、または放棄してしまった自然治癒力の実例が沢山示されている。人間が健康を害して病気になる原因は自然からの遊離であり、自らが自然の一部であることを忘れてしまった結果だ。
文明社会の中で科学が人間の健康を守っているのは事実であるが、同時にまた命の危機をも冒しつつある。いま人間が生存し続けることを望むなら、われわれが学習すべき事柄はこの本の中に沢山ある。人間の知識を捨てて動物の智恵に従ってみてはどうだろう。」
2003年掲載
読売新聞12/17、日経新聞11/2、日経サイエンス1月号、エコノミスト11/25号、毎日ライフ2月号、ラジオ日経2/3、WWF弘報誌7.8月号、エーザイ㈱パンフレット7月、JamikJournal12月号、朝日新聞2/18
自然界は薬の宝庫!
野生動物は自然の
偉大な治癒力を知っていた。
「レイチェル・カーソン”沈黙の春”に匹敵する衝撃を受けた。
申し分のない学識と美しい文章によるすばらしい業績」
エリザベス・マーシャル・トーマス(「犬たちの隠された生活」の著者)
1部 野生の知恵
第1章 野生動物の健康
・野生動物は健康なのか
・ほんとうの自然はどこに?
・健康調査がはじまった
・動物たちの「自己治療」に注目!
第2章 自然界は薬の宝庫
・植物が身をまもるために
・まだまだある植物の知恵
・植物の「毒」を利用する
・生薬は植物意外にも
第3章 食物、薬、自己治療
・食物は薬?
・ベジタリアン ゴリラ とハンター チンパンジー
・メニューを変える
・ミネラルを調達する動物たち
・ひなの頭骨や脚をもぎとった犯人は?
・塩をもとめて
・必要な栄養素を見つけるメカニズム
・毒物を摂りこむ昆虫
・栄養か自己治療か
第4章 生き残りのための情報
・動物たちの予知能力
・ウマの言葉を解する男、盲目のヘビ
・兵士の命を救ったウマの知恵
・チンパンジーの「自己治療」を観察する
2部 健康の脅威
第5章 毒物
・草食動物は植物毒を見分ける?!
・哺乳類のこどもは母親から毒を学ぶ
・毒性を下げるには
・土を食べて毒を消す
・危険をおかして洞穴を訪れるゾウ
・粘土に見つかった驚くべき薬効
・蟻塚の土は胃腸薬?!
・食べる土を選ぶ
・炭の毒消し効果
・人工的毒物を感知できる魚
第6章 目にみえない敵
・病気の原因は病原菌だけではない
・チンパンジーはきれい好き
・共食いを避けるわけ
・「ひなたぼっこ」のわけ
・腸内細菌と病原菌
・免疫を強化する植物化合物
・感染症を予防し治療する動物たち
・O157は抗生物質のつかいすぎが原因?
第7章 怪我と骨折
・驚異の回復力
・事故にそなえて
・動物も痛みを感じる
・治療のために身を隠す
・唾液に治療薬を確認
・傷のなおりをよくする薬草
・砂糖水、泥浴び、ギブス
・病気の仲間の世話をする
・ヘビの毒とヘビの恐怖症
第8章 刺す虫!
・「蠅叩き」と「水遁の術」
・相互グルーミングと掃除魚
・かゆみをおさえる塗り薬
・蟻浴、砂浴び、日光浴
・塩による手当てと尿荒い
・巣をまもる - 燻蒸消毒と強力な匂い
・毒をたくわえて虫を撃退
第9章 渋る主と招かざる客
・野生動物には寄生虫が少ない
・虫下し植物
・タテガミオオカミの寄生虫対策
・薬を丸飲みにするチンパンジー
・冬眠や渡り前の虫下し作戦
・チンパンジーの「苦い薬」
・昆虫もまた・・・・
・土食いは寄生虫対策にも
第10章 ハイになる
・酔っ払い動物
・動物がアルコールを好むわけ
・幻覚植物と興奮剤
・トリップか治療か
・動物も中毒になるか
第11章 精神病
・狂った行動にはわけがある
・あるチンパンジーの「狂気」
・ストレス状況下での対処法
・トラウマをはねのける
・飼育動物の神経症
第12章 家族計画
・ヒツジを不妊にするクローバー
・繁殖は食用植物に依存する
・「バイアグラキノコ」妊娠中絶
・食物であかんぼうの性が変わる
・妊娠、出産、授乳期の食餌管理
第13章 死との遭遇
・年齢を生きる
・老化を遅らせるには
・年寄りへの敬意
・ゾウの墓場
・ペンギンの墓場
・自殺
・死にゆく仲間へのゾウの反応
・死骸を埋める
・死への恐れと悲しみ
第14章 これまでにわかったこと
・作用範囲の広い戦術を組み合わせる
・予防は治療にまさる
・巨大な薬倉から適切な薬を選ぶ
3部 学ぶべき教訓
第15章 飼育下の動物
・動物園の動物たちの健康管理は十分か
・自然に帰す試みが成功しない理由
・ネコが鉢植えの植物を食べるわけ
・ブロイラーの当世健康事情
・ウシとヒツジの健康管理
・うつ状態の畜産動物
第16章 健康になろう
・現代人は「深刻な栄養失調」
・植物は「まるごと」食べることが肝心
・ヒヒの「カウチポテト」
・からだの要求に耳を傾ける
同じようにレイプをする人間がいることは事実です。せめて妊娠を避けられる安心感 ..
多くの患者が利用する「バイアグラ」や「シアリス」といった内服薬の処方はもちろん、必要に応じて「陰茎海綿体注射」の利用も可能です。これにより、内服薬での改善が見られなかった患者でも、効果的な治療を受けられます。
本書は『呪いの博物誌』(2005年、学研)に大幅な加筆修正を加えて改題したものです。
本書は古今東西にわたる奇怪で珍妙な呪法を紹介した1冊です。
第一章は浮気封じに恋占い丑の刻参りなどの色恋の関する愛憎の呪法、
第二章は脳髄に糞尿、バイアグラなどの猟奇的薬物とその生成呪法、
第三章は悪魔、魔女、巫女に死霊などの黒魔術、
第四章は縁起かつぎや摩訶不思議な民間呪文など、
第五章はイカサマ呪術やエセ祈祷、第六章は「結び」と呪術の関係、を紹介しています。
そのどれもが「ドロドロ」としたものばかりで、読む人は目を背けたくなるかもしれません。
しかし、著者はこのドロドロこそが人間が人間である以上は避けて通れない、人間の本質的・根源的なものであるといい、共生すべきものであるといいます。
「呪法という、逸脱し、暴走した想像力の現場を通して、われわれはむきだしになった、非合理そのものの人間存在と向き合うことになる。
人間は、なんと哀れなものだろうと思う方もいるだろうし、だから愛しいという方も、だから度し難がたいと思う方もいるだろう。
受け取り方は、もちろん各人の自由だ。
筆者はただ、この人間社会で実際におこなわれてきたドロドロの現実を示そうと思うのである。」
その思いでこの1冊はまとめられました。
今回、新たな版として図録含めて大幅に修正するにあたり、著者は原著で示したこの状況は、現代になり、より一層混沌としたものに向かっていると指摘します。
「これは人類が初めて経験する事態だ。
人間そのものが抱える「ドロドロの現実」は昔と同じでも、人間社会を成り立たせ、動かしていく仕組そのものが、根本から変わってきている。
古人と同じようにモノや人や自然とじかに関わりあいながら生きることができない新たな世の中で、人間の心がどうなっていくのか、先行きは見えない。
愛法も呪法も、自然の中で働いている心霊的なものとの関係を取り結び、利用し、動かすために行われてきた。
けれどもいま、心霊的なものの領域は、着実にサイバー空間へと移行し始めている。
サイバー空間自体が、体外に生み出された目に見えない巨大な無意識領域、心霊主義の立場でいえば、巨大な霊界になりつつあるのだ。
本書を読み返しながら、そんな思いを強くした。」
本書で紹介される数多の呪法、そのドロドロが読者にとってどのように作用するのか、精神のガス抜き的安全弁なのか、人格崩壊につながる禁断の麻薬なのか、それは各自が判断していただければと願います。
ある薬剤は存在している2)。 ヒトは外部情報の約80%を視覚から得ていると
なんかこっちの人々って、すごく我慢づよい。自分みたいに、京都の実家でろくにバイトもせずモラトリアム踊ってた身からすれば、なんでみんなもっと怒らねえんだよ、と思ったし、責められてるみたいに感じた。大学は、札束出して教師にケツ振ってりゃ誰でも入れる私学で、そんなに偏差値が高いわけじゃないけど、業界とのパイプはブリッカより太く、みんなすごくイージーに一部上場とかに滑りこむ。就活で、求人のチラシを舐めてるとき、事務のお姉さんに「被災地のボランティアがあって、そこに行けば、就職するうえですごく有利になるよ」と笑いかけられ、口元のほくろがいやらしいから、格好つけてしまった。でも彼女、加齢臭たぎってそうな大学のハゲ教授と付き合ってるらしい、というかなんなら、京都名物「と、いうわけで。」から指を絡めて出てくるところを目撃した。ドキューン。被災地に行くに先立ち、かんたんなアンケートがあった。特技みたいな欄に「ヒップホップ」と書いたのは、降谷建志カッケーってなって以来MCの真似事をしてたから、ほかにネタがないから汚しただけで、ぜんぜん意味ない。たまに夜更けのタカシマヤ前で第三のビールをマイク代わりにサイファー囲ってはいたけれど、他のちゃんとやってる子と違ってプレスの音源出してなかったし、ヒューマンビートボックスは牛のゲップぐらいしょぼい。そのわりに「ラップ」と書かないで「ヒップホップ」とでけえ字で書くんだから、ほんと、格好つけすぎなんだ。それが現地スタッフになぜかウケて、双葉に来た俺は、避難所を回るたびラップをやらされるはめになった。馬鹿げてる。もっとライブとかそういうの、MOROHAばりのギャングスタがかまさないと、勇気づけらんないんじゃねえのかよ。だいたい、避難所でライブ観てる人々の表情は、こっちが辛くなるぐらい陰鬱で、ましてやド下手くそなラップでは、励ますことなんてできそうにない。
DMMオンラインクリニックでは、ED治療薬を希望する方に向けて豊富な治療プランが用意されており、自分に合ったプランを選びやすいのが特徴です。名古屋にお住まいの方も、オンラインで簡単に診察を受け、バイアグラやシアリス、レビトラなど複数の治療薬から選択できます。それぞれの薬には効果の持続時間や特徴が異なるため、医師が丁寧に説明し、希望やライフスタイルに合った薬を提案してくれます。
をつくる牛のクローンをつくれば、そのクローン牛はみんなおいしいミルクを ..
職業的地位の付与の基準としての能力テストが信頼を増しているが、そこから考えられる一つの結果は、能力にもとづいた、しかし、より強固な一個の階級構造かもしれない。 個人が才能に乏しい両親の下にうまれたとき、能力の遺伝的性質は、厳密な選別テストの一般的使用とあいまって、個人をその他位に固定化することだろう。 階級内婚が多いことを考えると、けっきょくは世代間の上昇はいよいよむずかしくなると予想される(37)」。 ユートピストたちは、このような選別システムが、あの 『すばらしい新世界』 のデルタたち 〔A ・
著者:岩田正美、出版社:ちくま新書
このところ、格差論の延長線上で貧困への注目が集まっている。その大半は、格差の拡大によって、急に貧困が多くなったと解している。その前提として、つい最近までの「豊かな日本」には貧困なんてなかったという認識がある。
日本の高度経済成長以降、貧困はもはや解決したということで、貧困という言葉(ビンボーという言葉はまったく聞かれませんよね)はつかわれなくなった。
実は今から40年前、私がまだ大学生のころ、地域(川崎市幸区古市場)でセツルメント活動していたころ、現代の貧困を考えるというのが、私の考えるべきテーマ(研究テーマと言うと、言い過ぎになります)でした。いえ、スラム街で活動していたのではありません。普通の下町、工場で働く労働者の居住街での貧困問題を調査し、考えていたのです。3交代問題、住環境の問題、食生活の貧しさなど、いろんな角度から、それなりに考え、議論していたものでした。
格差と貧困とは異なる。格差は、基本的には、そこに「ある」ことを示すだけですみ、ときには「格差があって何が悪い」と開き直ることも可能だ。「能力のある」経営者が何十億円もの年俸をとり、何兆円もの資産があっても、その企業で働く労働者の年収が数百万円程度であっても、何も問題はないとされてきた。
ワーキングプアになぜ日本人の注目が集まったのか。まじめに働いているのに、なお貧しいという事実に世間が驚いた、ということ。つい最近まで、日本では、その気になれば働く場はどこにでもあると皆が信じてきた。だから、その気になっているのに働く場がなかったり、働いているのに貧しいと言うことは想像もできなかった。
特別な熟練をもたない労働者は、失業しなくても人生で3回、貧困に陥る危険がある。1回目は自分が子どものとき、2回目は結婚して自分の子どもを育てているとき、3回目は子どもが独立して自分がリタイアした高齢期である。
むふふ、なるほど、これは私にもあてはまりそうな構図です。もし私が弁護士としてやれなくなったときには・・・。考えただけでも、ゾクゾクッとします。
マクドナルド・プロレタリアートという言葉があるそうです。初めて聞きました。プロレタリアートなんて、もちろん私は大学生のころには見慣れた言葉です。でも、このころは、とんと見聞きしません。それが、あの世界的ファースト・フードのマクドナルドと結びついた単語になっているなんて・・・。
安い賃金と不安定な雇用で働くサービス労働者のことをさすようです。こうなると、私はすぐにキャノンの御手洗社長を連想します。そうです。今や日本経団連会長の御手洗です。
御手洗という人物は、最近の言動によると、自分さえ良ければ一般大衆なんてどうなってもいいという典型的なアメリカ型の無責任経営者としか思えません。私はまったく彼を見損なっていました。もっと気骨のある人物のように思っていたのですが、単なる買いかぶりにすぎなかったようです。まあ、彼がこんなブログを読むはずもないでしょうから、これは、ごまめの歯ぎしりに過ぎませんが・・・。
それにしても、日本の経営者は、もっと企業の社会的責任、つまり日本人全体の幸福のことを真剣に考えてもいいんじゃないでしょうか。ハゲタカ・ファンド対策かなにか知りませんが、巨大なマネーゲームにうつつを抜かしすぎて、普通の日本人の生活を忘れすぎています。貧困というのは、地方の弁護士の一人である私にとっては、ありふれた現象です。一ヶ月に何万円かで過ごしている人のなんと多いことでしょう・・・。
格差は、それがあってどこが悪いという開き直りが可能だ。しかし、貧困は、社会にとって容認できない、あってはならないという価値判断をふくむ言葉なのである。
うむむ、そうですね。なるほど、そうなんですよね・・・。
近年の貧困の増加は、固定化の方向ですすんでいる。若年女性全体における貧困経験の増加、中年期における貧困常連層と安定層への二分化の進行がある。高齢女性の貧困は、とくに固定貧困として存在している。
路上ホームレスは別に新しい問題ではなく、戦前そして敗戦直後には、貧困の主要なタイプの一つだった。ホームレスの存在は、以前から見えていたし、発見されていた。
新宿区役所の相談件数は、1991年までは3000人台で推移していたが、1994年度は4万人、1995年度は9万人、1997年度は10万人をこした。
全国主要都市のホームレスは1998年には1万6000人、1999年には2万人、2001年は2万4000人。2003年には2万5000人になった。日本のホームレスのもっとも大きな特徴は、中高年男性に集中している点にある。
路上ホームレスの5割近くが50歳代に集中し、60歳代で3割前後となっている。6割近くが義務教育までの学歴程度で、未婚率も高い。
むしろ現代日本の路上ホームレスは、低学歴で未婚の中高年の男性に多い。日本のホームレスが中高年の男性を中心とする単一集団のように見えて、実は多様である。
フリーターや無業者が増えるなかで、結婚したくてもできない人が増えている。
貧困が、さまざまな出会いを奪っている。
若年女性の「うつ傾向」が中卒レベルの学歴と強い関係をもっている。うつ傾向は結婚している女性よりも離死別を経験した女性や未婚の女性に強く見られる。
誰だって老人になります。老人になったときに安心して老後を過ごすことができない国なんて、貧しい政治ですよね。北欧万歳というわけではありませんが、寝たきり老人がいないとか聞くと、日本の政治と社会がいかに貧しいか、考えさせられます。お金があって、健康で、若い(年寄りでない)者だけがのさばる世の中、日本であってはいけない。今年、還暦を迎える私は痛切に思います。
(2007年5月刊。700円+税)
[PDF] 食品安全情報(化学物質)No. 8/ 2018(2018. 04. 11)
著者:溝口 敦、出版社:小学館文庫
この本を読むと、日本って、いったい何という国なのか、底知れぬ不安にかられます。日本のヤミ世界のだましの手口を、これでもかこれでもかと明らかにした本なのです。
初めて会う人間には5つを表現せよ。1つは相手に力を示す。自分のうしろには若い者を3人ほど控えさせる。力の表現だ。2つ目は経済力を保持する。3つ目は知識、4つ目は人間性。5つ目はユーモア。この5つを全部表現すること。なぜかなれば、人は出会いで何かを求めているから。だから、ヤクザの親分のうしろに若い者が必ずいるんですね。
インターネットが出てきた当時、ドッグイヤーと言われた。その後がキャットイヤーで、今はマウスイヤーだ。昔の13年が、1年で流れてしまう。たしかに、世の中の移り変わりの早さについていくのが大変です。法律もどんどん変わっていき、困っています。
覚せい剤は、北朝鮮が主につくっていたけれど、アメリカと日本と韓国の取り締まりが厳しくなり、今は、中国、フィリピン、台湾あたりを経由する。もちこみはハンド。手で、女の身について運ぶ。1キロ単位なので、品薄、値上がりしている。
韓国でバイアグラを偽造しているけど、ちゃんと効き目がある。
ヤミ世界の金利は月に1割。これは東も西も定番だ。
ふりこめ詐欺は経費が月に100万円で、売上げの9割は利益になる。ふりこめ詐欺屋にとって、名簿は命だ。ネタとしていいのは、ケータイのアダルトサイト利用者の名簿だ。
ケータイの出会い系サイトで客に来るメールの半分以上はサクラの作文だ。サクラの時給は1200円〜1500円。4〜6交代制で、24時間対応する。サクラを引き受ける会社やサクラを派遣する会社まである。
サクラは男に会わないし、会わせない。話題をそらすのもテクニックのうち。アドレスを集めるため、女の子を装って、よその出会い系サイトに入り、1日1000個も集める。
ネットキャバ(ネッキャバ)は、男たちが安全な自室にこもって、女性とのきわどい会話を楽しみ、女性の裸を見たがり、注文をつける。1日で700万円の売上げと豪語するサイトもある。女性も自室にいて、在宅で稼げる。ひゃあ、そんな商売があるんですか。
裏ビデオの店は、繁華街のコンビニの横か前、あまりにぎやかでなく、かといって裏通りでもないところで、店員は50〜60代の男性がよく、店は平均20坪で1階がいい。
ほかにもいろいろありますが、人間不信がひどくなりますので、ここらでやめておきます。なんとも嫌な商売がこんなにも多くあるのですね。こういう商売をしている人って、いったい子どもには何と説明してごまかすのでしょうか・・・。
(2007年1月刊。552円+税)
女性ホルモンであるエストロゲンは、男性の体内にも実は分泌されており、男性体内においても、実は生理的な役割を持つとされています。しかしその分泌量は成人女性のそれとは比較にならないほど少なく、また男性ホルモンの分泌量に対してのエストロゲン分泌量が、相対的に増加して行くと、ED/勃起不全などの男性の性機能障害を引き起こすとされています。
大豆などに含まれる植物エストロゲンは弱いながらもエストロゲン作用を持っているので、ロジカルにはその大量摂取によって男性にED/勃起不全が発症する事は、論理的整合性が有ると思われます。
しかし、ED/勃起不全を発症しうるレベルの植物エストロゲンの摂取量に関しては、重ねて検討が必要と思われます。
もともとこの植物エストロゲンは、自然界において草食動物の過剰繁殖を抑制する為に、雄の生殖機能を制限しようとする自然の防御システムの一環と言われています。
つまり草食動物が増えすぎると植物が減りすぎてしまうので、草食動物の繁殖量を抑えてバランスをとる為にそうした機能を持つにいたったという、合理的な進化過程で生まれた物質と言うことです。
ちなみに草食動物の代表格である牛が1日に食べる植物量は青草で50〜60 kgと言われています。これは人間が摂取する植物量とは比較にならない圧倒的に膨大な量の植物です。このような膨大な植物摂取量をもってやっと植物エストロゲンが、生物に生殖機能の抑制を示すに至るという前提ならば、これは人間に対して適応される事が少ないシステムである可能性があります。
つまり常識範囲内の大豆摂取量においては、ED/勃起不全リスクはさほど上昇しない可能性が高いとも思われます。
また、大豆消費の比較的高いとされるブラジル、中国、イタリア、日本、韓国、マレーシアなどの国で大豆の一人当たりの年間摂取量と、ED/勃起不全の有病率を比較検討した所、そこには直接的な相関関係は見いだせなかったとも報告されており、大豆の大量摂取によるED/勃起不全リスクの上昇は、人間にとっては実質的なもので無く、あくまでロジカルなものなのか、もしくは数多く存在する影響度の低いED/勃起不全リスク因子の一つであるという可能性が検討されます。
第183回国会 予算委員会第四分科会 第2号(平成25年4月15 ..
「病院というよりは、昔流れた情報で、ED治療薬は心臓に負担がかかるとか、未だに誤解してしまっている人が中にはいますね。実際は健康な方が服用して心臓に悪影響を受けるということは考えられない話です。きちんと病院に行って処方してもらえば、まず大丈夫です。むしろもともと心臓病の薬として開発された薬ですので、逆に良いくらいではないでしょうか。服用することで酸素をよくとりこめるようになるので、山登りする人は高山病予防にバイアグラやシアリスを持っていくという話もあります。肺動脈性肺高血圧症の治療薬としても、バイアグラと同じシルデナフィルを有効成分とするレバチオというお薬が使われています。実はこのお薬、見た目は違いますが中身はバイアグラと同じです。ただしシルデナフィル20mgなので勃起不全治療としてはあまり効果はないでしょう。」
用のトイレ、これもしっかりと備蓄体制を整備していかなければならないと思います ..
「ADDYI(アディ)」に続き、性的欲求低下障害(HSDD)治療薬情報として、2019年6月、新たにブレメラノチド(商標名Vyleesi)というHSDD治療薬がFDAによって承認されています。
開発は米Palatin Technologies(パラティン・テクノロジーズ社)、販売は米Amag Pharmaceuticals(AMAGファーマシューティカルズ社)です。
使用方法は性行為の45分前に腹部か大腿部に自己注射します。注意点は1回使用したら24時間空け、1ヶ月に8回以上は使用してはいけない等です。
こちらも。本家バイアグラのように、必要なときに使用するタイプとのことです。
齧歯類においては肝肥大、ペルオキシソーム数とそのサイズの増大、発がん作用などを示すが、ヒトではこのような作用は認められない。
バイアグラは処方箋医薬品であるため入手するには医師の処方箋が必要です。しかし女性への適用がないので、でしょう。当院でも女性には処方することはできません。
しかし、2004年4月より不妊治療の目的に限りバイアグラの処方に健康保険が適用になっているので、ご結婚をされていて不妊治療でお困りの場合は夫婦そろって受診すれば入手することは可能です。しかし、その際も医師から女性には適用がないので服用するのは旦那さんだけと指導を受けることにはなります。
[PDF] 平成25年度第1回京都府食の安心・安全審議会議事要旨
Crenshaw MD 著「」という本の中に、「は攻撃的な性衝動を担当」「エストロゲンは女性の受け身の性衝動を担当」という記述があります。同じ「性欲」でも、エストロゲンとテストステロンでは凹凸のようなニュアンスの違いがあるようです。
は性欲を亢進し、異性を惹きつける体臭フェロモンを発散して、あなたの積極性や性衝動を高め、脳内でドーパミンという神経伝達物質を促して、勃起を促すと言われています。今風に表現すれば「肉食系」になる作用と言えましょう。近年は肉食系を示唆する女性の話題も取り沙汰されるようですが、男性ホルモンは男性専用ホルモンでなく、女性にも積極的で攻撃的な性衝動があるのかも知れません。
性欲が旺盛な頃を思い出していただけますでしょうか。「ささいな刺激で性的な妄想をしてムラムラする」「マスターベーションに耽る」「性的なパートナーを求めてナンパする」「ベッドインに向けて手練手管を講じる」等々。現れ方は人それぞれでしょうが、思い当たることがありましたら「あの時の、あの感覚」がテストステロンの典型的な催淫作用のようです。
テストステロン・クリーム剤「」の効能・効果の中に(男性ホルモン分泌不足による)性欲欠乏があります。これは、不足していたテストステロンに対してを塗りテストステロンを補充することで期待される効果ですが、あくまで不足を補充して健常時のレベルに近づけるものですし、即効性も期待できませんので、非日常的な媚薬や催淫薬に期待するような効果はありません。
もし、人並み以上のが分泌されている鍛え抜いた肉体のアスリートや肉体労働者の中にセクシーな魅力に満ちた肉食系の人がいるならば、それは理にかなっているはずです。健康的な生活習慣を保ち、心身を整え鍛え抜いた肉体を持つこと自体が、男女の性別に限らず最も合理的で合法的な媚薬になるはずです。
先ほど「エストロゲンは女性の受け身の性衝動を担当」とご紹介しました。エストロゲンの生理活性は色々ありますが、コラーゲン産生を促して肌に張りと潤いをもたらし、気分を明るくして、体型を美しいシルエットに整えますから、自ずと異性を誘引する魅力につながりますし、セックスにおいては性感が敏感になり陰部も男性器を受け入れやすくなるように濡れることが知られています。このような生理的な反応も受け身のイメージです。
「女性が恋をすると綺麗になる」というのは必ずしも俗説でなく、恋愛や性的なパートナーの存在がエストロゲンの分泌を旺盛にして、皮膚の状態や体型を整え、明るい気分が美容や装う意識につながり、より魅力的になることが考えられます。そのような中でパートナーに会えず「さびしい」気持ちになったとき、マスターベーションの頻度が増えるとすれば、それはエストロゲンの催淫作用なのかも知れません。
テストステロンの性衝動を「出したい」「やりたい」と表現するなら、エストロゲンの性衝動は「入れたい」「さびしい」という表現になるのでしょう。言うまでもなく、女性の外生殖器は形態学的に凹凸の凹側です。心身ともに凹凸の「凹」であり、鍵と鍵穴で言えば「鍵穴」のイメージです。女性が一人ひとり異なる鍵穴であるとき、多くの女性が望む男性像は、女性の心身を開錠する唯一の「鍵」であることなのかも知れません。そうであれば、意中の女性を虜にしたいと考える男性は、薬物に頼る発想よりも、その女性にとって唯一の「鍵」となるように切磋琢磨することが、効果的で健康的なアプローチとなりそうです。そして開錠に成功したとき、お互いの存在自体が最高の媚薬になるはずです。
ストレスや抑うつ状態は、本来のホルモン分泌を乱すことが考えられますので、自ずと性的な気分になれない場合があります。だからと言って、性ホルモンを補充すれば性的な気分になるのかと言えば、必ずしもそうならない事が考えられます。
先ずはストレスを発散し、ストレスの源となる問題を解決することが解決の本質と思われます。また、抑うつ症状で医師を受診して抗うつ薬を処方されている人は、抗うつ薬の副作用も考えられますから、主治医にご相談いただくことを強くお勧め致します。
もし、男女のいずれも更年期の不定愁訴に思い当たることがありましたら、性ホルモンの分泌不足が考えられますので、性ホルモンの補充が選択肢になるかも知れません。詳しくは、女性であれば婦人科、男性であれば泌尿器科を受診して、更年期症状や性機能症状に関する問診票に記入し、ホルモン分泌の状態を検査したうえ、ホルモン補充の禁忌となる既往症が無いか確かめた上で、医師に最適な処置をご相談いただくのが最善です。なお、更年期外来や性機能外来などの特殊外来を設けている施設であれば、より専門的な診察が期待できるので、万全です。
「合法的で安全なもの」は、ありません。なぜなら、そのような化学物質は向精神薬や麻薬、覚せい剤になってしまうからです。非合法であったとしても、安全なものは無さそうです。
もし「合法、安全で効果があった」とおっしゃる人がいるなら、それが事実だとしても「プラセボ効果」と思われます。すなわち、成分そのものの作用というより、効果に対する期待感や直接関係の無い影響(動悸や心拍数の変化など)で、自分自身の性的興奮を高めてしまったのです。ご本人が満足するなら、プラセボ効果は最も安全という観点から最善とも言えますが、誰でも常に同じように効くとは限りません。
特効薬と言われている「バイアグラ」や「レビトラ」「シアリス」といったPDE5阻害薬に、西洋近代医学最古の性機能治療薬。結論から申しますと、どちらも「皆さんが期待するような」催淫作用はありません。
これらの薬剤をご使用になって、「催淫作用があった」とおっしゃる方は、血圧や心拍数の変動や勃起の効果を実感して性的に興奮した、と言えましょう。敢えて申しますと、性機能の自信を取り戻した結果、性欲や性的興奮が後から高まった、と思われます。
筆者自身は全く性的刺激がなく、性的な気分でない時にバイアグラやを服用しても、意識しない限り性的な気分にはなりません。また、(かなり難しいことですが、)性的な意識を完全に忘れている間に、意に反して勝手に勃起することもありません。少し鼓動が高まり、顔が紅潮するだけです。もちろん、これらの薬剤が効いている間に性的な想像をしたり性的刺激を与えれば、中等度と思われるEDは見事に回復します。
一方、は、古い薬学の専門書には「催淫剤」と書かれていますし、を知る人の多くは「催淫剤」と認識していらっしゃいますが、性欲そのものを亢進させるかどうかは不明です。近年の研究によると、は、交感神経α2受容体の遮断作用や、セロトニンに対する拮抗作用と言われていますが、これらの作用が直接、性欲を亢進させるとは考えられていないようです。
なお、女性に対する催淫作用を期待して、バイアグラやを女性に投与する試みは、いつの時代にもあったようですが、作用機序の合理性に疑問がありますし、学術的には期待通りに成功した話はなさそうです。少なくとも弊社が学術文献を検索して来た限り、「女性の性機能障害に効果が無かった」という報告こそありますが、「効果がある」という報告はありません。アングラ系の情報の中には、もっともらしい成功談やコメントを見かけますが、先述のようなプラセボ効果と思われます。少なくとも適法ではありませんし、リスクとコストには全く見合わないようなので、同じ予算と労力、時間を「パートナーとの雰囲気づくり」に割く方が建設的だと思います。
追記しますと、近年はの補充が検討されています。
齢の牛が多く、7月で58頭中47頭、約81%が検査対象で、8月が59頭
冒頭、ペニスの解剖学が紹介される。その最初にこう書いてある、「ペニスをソーセージのように輪切りに切ってみると、上の方に包皮に包まれた陰茎海綿体とよばれる二つの管が、猟銃の銃口のように並んでいるのが見える」。なるほど、出だしとしてまことに解剖学ふうではあるが、なぜに「ソーセージのように」であって、なぜに「銃口のように」なのかというあたりが、すでに研究者にしてひくひくとしたペニスナイドだろうとしか思えない。
本書の著者たちの博覧強記は一読に値する。何から何まで書いてある。ペニスを崇拝するイシスの物語から神学者が夢精を禁止しなかった理由まで、勃起障害の精神医学からジミ・ヘンドリックスのペニスの型を取った模造品を愛蔵している女性フリークたちの話まで、これはきっと“知茎”の百科全書だろうと思いたくなるほどのペニスの、ペニスのための、ペニスナイドな博物誌なのである。
むろん初めて知ったことも数かぎりない。とくに割礼(circumcision)についてはいろいろ考えこまされた。ユダヤ教においてもイスラームにおいても、割礼することは唯一神との契約のスタートのしるしだったのだけれど、また、イシスがファルス(ペニス)を崇拝しているのは承知していたけれど、勃起したペニスをもった像に死者を蘇らせる呪力がひそんでいたとは思いもしなかった。
古代、ペニスはけっして不埒な一物ではなかった。ギリシア人はファルスと、ローマ人はムチヌスと、インド人はリンガと、日本人は陽物とか男根とよんでこれをこよなく崇拝もしくは愛玩したものだ。ただし最初の男根崇拝は人間ではなく、牡牛や山羊の動物のペニスが信仰対象になっていた。
不思議なことに、この動物のペニスをつけた石像がやがて上部に人間の頭をつけ、ヘルメスやバッカスやアドニスとよばれているうちに、人間のペニスについての美意識というのか、価値観というのか、羞恥心というのか、そういうものが生じてきた。それまではペニスの大小など問題にもなっていなかった。それが変化してきた。いや、大きいほうが勝ったのではない。たとえば古代ギリシアでは小さなペニスと引き締まった尻こそが一対で称賛された。
反対に、大きなペニスと柔らかな尻という一対がソドミーや悦楽の象徴になった。アリストファネスが『雲』のなかで、「私の言うとおりに理性の正しさを信じれば(中略)、尻は盛り上がり、陰茎は小さくなるだろう」と書いているのは、いかにもありそうなことで、また、とうていありそうもないことなのである。ペニスには、たえず「大きいかどうか」「長持ちするかどうか」「いつダメになるか」という深刻な苦悩と不安がつきまとってきた。本書は女性が翻訳しているのだが(とてもうまい)、彼女も男たちがこれほど「大きさ」や「持続力」に涙ぐましい関心を寄せ、スッポンからバイアグラにいたるまで、その能力差の克服に努力を重ねてきたことに半ば驚き、半ば呆れている。
ミシェル・フーコー()は「人はセックスによって知識を得る」と結論づけた。このことが女性にあてはまるかどうかはわからないが(あてはまりそうはないが)、少なくとも少年たちがセックスについてなんとか知ろうとして、それが体験できない前に自分の道具をもってすべての知を類推の根拠としているということは、たしかに女性にももっと知られてよいかもしれない。この「未知のセックス」の想像期に、大きさや立つかどうかといった不安が思春期の少年を幽閉してしまうのだ。
少年期の不安がもたらすペニス執着主義は、男性自身の文化史をいたずらなまでに色濃く飾ってきた。この不安を最初から除去してしまおうというのが、割礼や成人式のイニシエーションだった。本書がさまざまな民族や部族の例をあげて立証している。キリスト教社会の一部で、ペニスに傷をつけることによってキリストの聖痕に近づけるというイニシエーションがあったとまでは知らなかったけれど……。
本書の記述だけでははっきりしないのだが、ペニスの見方には洋の東西での相違があるように思われる。どちらかといえば、西はペニスとヴァギナを別々にし、東はそれを合わせる合体信仰に加担してきたようなのだ。聖天さま(大聖歓喜天)は陰陽合接したままの姿がイコンで、道祖神は陽根と陰部が一緒になるためのイコンなのである。
インドや中国では『カーマ・スートラ』や道教経典をはじめとした“性典”がそうであるように、さかんに陽気な性交を称揚した。またペニスをペニスがもつ生理に従わせるのではなく、あえて意志によって制御することも工夫してきた。「接して漏らさず」とはこのことで、すでにタオイズムの導引術に詳しいことだった。
しかしながら、勃起というものはペニスに対する刺激とともに、ニューロトランスミッター(神経伝達物質)が脳にばらまかれることにも深い関係をもつものなので、勃起したままで漏らさないなどという芸当を神聖視することには無理がある。マルキ・ド・サド()はだからこそ神知よりも人知を重視して「知と性」とを結びつけた。西のペニス学は総じてそういう立場にある。継続することよりも何度も射精することを重視する。
東はおそらく持続派なのである。かつてベルクソン()が「純粋持続の相」をめぐる考察を発表したときも、それが東洋哲学にこそ近しい議論であると言われたものだった。しかし、これは中国の閏房哲学にこそあてはまるものの、日本人にもあてはまるのかどうかはわからない。本書はウタマロが巨大ペニスの呼称になった理由などには触れているけれど、日本のペニス文化史についてはほとんど言及していないので、本書のなかだけで東西を比較するのはむずかしい。金関丈夫()、中山太郎、池田弥三郎、高橋鐵、赤松啓介()をはじめ、名だたる日本の性風俗研究者が細部の議論に加わる必要がある。
本書の翻訳者の藤田真利子は推理小説にも詳しい斯界の名翻訳家で、この本の評判のせいか、キャサリン・ブラックリッジの『ヴァギナ』(河出書房新社)、アルテール&シェルシェーヴ『体位の文化史』(作品社)、ゲイリー・P・リュープ『男色の日本史』(作品社)なども訳している。
[PDF] 生理学から見たヒト Human in the eyes of Physiology
(pp5-6) 人間の肉体と精神に介入するテクノロジーの急成長は、たしかに人間の福祉に役立つ面がある一方、使い方しだいで、C・S・ルイス〔訳註・イギリスの英文学者、キリスト教作家(一八九八―一九六三)〕が述べた、そして彼自身の優れた小著の題名にも用いた言葉どおり、「人間の廃止」(一六六―一六七ページ参照)にいたる非人間的な道へ滑り落ちていくことになりかねない。だから、非現代的な狂信や、[p6>人間の生命に対する冷酷な無関心と闘わなければならないのとまったく同じように、科学主義の暴走や、自分の思いどおりに人間を作り変えようとするユートピア計画を避けなければならない。人類の未来を守れるかどうかは、一方の極にいる非人間のオサマ・ビン・ラディンたち、他方の極にいる「人間後(ポスト・ヒューマン)」〔訳註・バイオテクノロジーによって、人間本来の性質を失った人間のこと〕の「すばらしい新世界」の人々を回避しながら、真ん中の道を賢く進んでいけるかどうかにかかっている。不幸にも、私たちはまだ、自分を取り巻く状況の重大さに気づいていない。(pp7-10) 人間の形質を転換させる力のいくつかは、すでに現実のものとなっている。経口避妊薬。体外受精。培養胚。代理子宮。クローニング。遺伝子スクリーニング〔訳註・胚・胎児・幼児・成人の遺伝子を検査して遺伝性疾患の有無を調べること〕。遺伝子操作。臓器摘出。機械的な臓器移植。キメラ胚〔訳註・異なった遺伝子型を有する胚細胞や細胞を結合させた胚〕。脳へのコンピュータチップの埋め込み。子供たちにリタリン〔訳註・中枢神経刺激薬。注意欠陥多動性障害(ADHD)の子供などに使用される〕、大人たちにバイアグラ、すべての人に抗うつ薬のプロザック。そして、この憂き世から逃れるため、BGMを聴きながらちょいと余分にモルヒネを。 オルダス・ハクスリーは、こうした世界が来ることを二世代前に見抜いていた。おもしろいけれども不安をかきたてる小説『すばらしい新世界』(出版されたのは一九三二年で、読み返すたびにいっそう強い感銘を受ける)のなかで、彼はその意味をありありと読者の面前に描き出してみせた。前世紀の、たとえばすでに設定された年代が過ぎ去ってしまったオーウェルの『1984年』などの未来小説とは異なり、ハクスリーは暗黒郷(ディストピア)を人間の性質に反するものとしてではなく、人間の性質にのっ[p8とって出現するものとして描いている。実際、そこに息づいているのは、もっとも人間的で進歩的な願望だ。その願望が完全に成就した姿をとおして、見かけはさほどでもないがより致命的な悪というものが、中途半端な善の勝利と深くかかわっていることを、ハクスリーは教えてくれる。 ハクスリーが舞台にしたのは、今から七〇〇年後の人間社会である。遺伝子操作、精神賦活薬、睡眠時教育、ハイテクノロジーの娯楽によって生み出された、申し分のない博愛主義に穏やかに支配された暮らしだ。ついに人類は、病気、攻撃性、戦争、不安、苦悩、罪悪感、嫉妬、悲嘆を取り除くことに成功したのだ。しかしこの勝利は、均質化、凡庸、意味のない仕事、薄っぺらな愛着、品のない嗜好、偽の満足、愛や憧れをもたない魂という高い代償を支払うことになる。 「すばらしい新世界」は繁栄、共同体、安定、ほぼ万人に共通の満足を現実のものとしたが、その結果、形だけが人間で人間性をもたない生き物しか存在しなくなってしまった。彼らは消費し、性交し、心を落ち着かせる薬「ソーマ」を飲み、塔からボールが転がり出てくる「遠心式バンブルパピー」のゲームを楽しみ、何でもかんでも機械を動かしてすませてしまう。読むことも、書くことも、考えることも、愛することも、自分自身を律することもない。芸術や科学、徳や宗教、家族や友情、すべては過去のものだ。いちばん大事なのは肉体の健康と刹那の満足である――「今日得られる楽しみを明日まで我慢するべからず」。誰も高い志はいっさいもたない。すばらしく新しい人間は、あまりにも非人間化されてしまったので、自分が何を失ったのかさえ気づかない。 もちろん、『すばらしい新世界』は空想科学小説だ。抗うつ薬のプロザックは、ハクスリーの「ソーマ」ではない。核移植や胚分割によるクローニングは、「ボカノフスキー法」〔訳註・『すばらしい新世界』に出てくるクローン大量生産法〕と同一の技術ではない。MTV(ミュージック・テレビジョン)[p9>や仮想現実パーラーは、「触感映画(フィーリ)」と同じものではない。また、気軽に責任のないセックスをする風潮にしろ、小説にあるような空虚で愛のない行為とはかぎらない。だが、ハクスリーの想像世界と現在の世界の類似点は不安を呼び覚ます。何よりも、今の生体工学や精神工学がまだ初期の段階とはいえ、それが本当の成熟に達したときにどうなるかを、あざやかに見せているからだ。すでにテクノロジーによって生じた文化の変化は、ハクスリーの予想をはるかに超えた心配の種となるに違いない。 ハクスリーの小説では、たとえ善意からにせよ、世界を支配する独裁者の指示にしたがってあらゆることが進んでいく。だが、彼の描いた非人間化には、専制政治や外的コントロールが絶対必要というわけではない。それどころか、未来の社会はまちがいなく人間の望みどおりのもの――健康、安全、快適、豊かさ、楽しみ、心の平和、長生きなど――を提供するだろうから、人間の自由意思のみで、同じように人間性を喪失した状態になってしまう可能性がある。世界を制御する装置など必要ない。テクノロジーの法則を、リベラルな民主社会を、情け深い博愛主義を、倫理の多元性を、市場の開放を提供してくれるだけでいい。そうすれば、すべて自分たちの力で「すばらしい新世界」を作り上げてみせる――行き先を決めるのにむだな時間をかけたりするものか。念のため断っておくが、列車はすでに駅を出発してスピードを上げている。ただ、人間が操縦しているのではないらしい。 こうした状況を喜んでいる人々もいる。一部の科学者やバイオテクノロジスト、彼らを後援している企業家、サイエンス・フィクション信者や未来学者や自由意思論者を激励する応援団などだ。なぜなら、実現すべき夢、ふるうべき権力、勝利の栄光、そして約束された金――巨額の金――があるからだ。しかし、独善的な主張をする革命支持者ではない多くの人々は、心配している。なぜなら、科学の専門知識がなかったり、未知のものへのおそれを抱いていたりするからだ。それでも私たちには、[p10>列車がどこへ向かっているのかはっきりとわかる。また、そこが行きたい場所ではないことも。目的を遂行する賢明さと、滅亡にいたる知識の区別はつけられる。その違いを説明できないような輩(やから)に、人類の未来を託したくはない。人間後(ポスト・ヒューマン)の未来を歓迎する者は人間性の友ではない。 だが、心配をよそに、これまで私たちは何ひとつ防ごうとはしなかった。医学が与え続けてくれる恩恵がうれしくて、現実を直視してこなかった。いや、人間工学は必然の結果で止められやしないと理屈をつけて、自分たちの怠慢を正当化しているのかもしれない。いずれにせよ、私たちは自らの瓦解の準備に手を貸しているのであり、ある意味では、まちがった方向へ導いているとはいえ、言葉と実行が一致しているバイオ狂信者よりも責めは重い。(pp12-14) 公平に見れば、ハクスリーの『すばらしい新世界』に対する私の生徒たちの反応から判断して、私たちはまだ、彼の描いた社会を不快に感じられないほど堕落していないし、皮肉屋にもなっていない。だが、生徒たちの反対理由を知るのは役に立つ。 敏感な平等主義者である彼らは、まず、階層化社会の強固なヒエラルキーに反感を抱いた。その社会はアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ、イプシロンに分かれており、それぞれの階層に特有の職業と娯楽が用意されている。しかし生徒たちは、次のことを見逃した。子供のときからきちんとしこまれてきたせいで、各階層の人々はそれぞれ自分たちの居場所に満足しきっており、階層間の嫉妬や敵対心は存在していない。しかも最終的に、アルファであろうとデルタであろうと、楽しまされている存在(そういっていいなら)であることに何の変わりもないのだ。全員の必要性や願望は完璧に充足されている。全員が等しく健康だ。階級の上下にかかわらず、それぞれの仕事はまったく決まりきっている。娯楽も平凡である。人間関係は不毛で、人生最大の楽しみは薬から得る。実際、次のように言い換えてもいいだろう。この厳密な階層区分が、レベルの異なる技術活動や経済活動の必要性を満たすために設けられ[p13>たものにしろ、「すばらしい新世界」は私たちの社会や、(あえていえば)世界のどこかに存在するほかの社会や、どこかにありそうな社会よりも、ずっと博愛精神に満ちている、と。階級別に割りあてられた制服の色の違いほどにも、実際の不平等は存在しないのだ、と。 彼らが示した第二の不満は自由の欠如だ。なぜなら、私たちは博愛主義者であるばかりでなく、自由主義者でもあるから。小説のなかではすべての人間の資質は遺伝子操作であらかじめ決定され、あらゆる信条は調整され、類似が強制される。世界の管理者たちは、強力な心理学的、化学的テクニックを用いて行動を制御しながら、平和や社会の安定を乱すものがないように取り計らう。自分の頭で考える「異常者」や「不適合者」は島に隔離し、その種の連中だけで暮らさせる。ハクスリー自身、自由の欠如を彼の暗黒郷(ディストピア)の問題の核心とみなしていたのは明らかだ。彼がこの、小説の題辞に選んだのは、やがて世界の知識人はユートピアへの行進に背を向け、かわりに「より不完全で、より自由な」社会を追い求めるだろう、と述べた哲学者ニコライ・ベルジャーエフの一節であった。 だが自由の欠如は、重大であるにせよ、欠陥の核心ではない。自由を手にした人々は、すべてにわたって自分の意思を押しとおす。「すばらしい新世界」の住民たちと同じく人間関係が希薄となり、つまらない欲求を追いかける。証拠がほしいなら、周囲を見まわせばいい。たしかに自由はどうしても手に入れたいものだが、したい放題したあげくの自滅を防ぐ砦にはならない。つまるところ、選択の余地があるだけではだめで、すべては「何を選んだか」によることになろう。 「すばらしい新世界」でもっとも厭(いと)わしいことは、不平等でも自由の欠如でもなく、非人間化と堕落である――そして何よりも悪いのは、そういった「人間後(ポスト・ヒューマン)」の状態を、誰も悔やんだり気づいたりしておらず、したがって人間的にもっと豊かになりたい、もっと成長したいという願いもないことだ。[p14> 読者である私たちもハクスリーの描く非人間化に気づかないのだとすれば、すでに道の半ばを過ぎてしまったに違いない。 そういった非人間化の徴候や症状が見えないため、不幸にも、ハクスリーが小説をとおして行った文学的批判は私たちの仕事に反映されることがない。また、「すばらしい新生物学」にかかわる大きな危険にも気づかない。とりわけ恐ろしいのは、週を追うごと日を追うごとに完成に近づきつつあるバイオテクノロジーの意味を国民に伝える専門家たるべきアメリカの生命倫理学者のあいだにさえ、この鈍感さが蔓延していることだ。おおかたの学者は来たるべきものにほとんど心を乱されず、続々とバイオテクノロジー会社に雇われてゆき、最新の革新に倫理の祝福を授けている――それが愛のためではなく金のためであることは明らかだ。未来に横たわっているものが、「専門家たち」に見えない、あるいは気にもされないのであったら、残りの人々にどういう望みがあろう?