『コブラ』~不条理極まりない犯罪が横行する現代こそ【スタローン ..
プーマジャパンは、COBRAの新作ゴルフクラブ「DARKSPEED」シリーズの「LS」「X」「MAX」3モデルのドライバーとフェアウェイウッド、同シリーズのユーティリティー、アイアンの新製品発表会を開催しました。 プーマジャパンは1月31日、都内で新製品発表会を開催し、COBRA(コブラ)ブランドの新作ゴルフクラブ「DARKSPEED」シリーズのドライバー、フェアウェイウッド、ユーティリティー、アイアンをお披露目しました。ドライバーとフェアウェイウッドは、フェード系の「LS」、ドロー系の「MAX」、その中間の「X」の3モデルを展開。ドライバー、フェアウェイウッド、ユーティリティー、アイアンそれぞれのウィメンズ用も同時に発売されます。「コブラ」ブランドは、2023年4月に創立50周年を迎えました。ブランド創立以来、革新性にこだわってさまざまな”業界初”を作り続けてきた集大成が、スピードを追求した今回の「DARKSPEED」シリーズとのことです。 発表会は新製品の紹介に加え、世界ドラコン王者のカイル・バークシャーとプーマアンバサダーの進藤大輔さんをゲストに迎えたトークセッション、さらに世界王者のスイングが生で見られるデモンストレーションで構成。あいさつに立った同社コブラプーマゴルフ事業部ゴルフ本部長の大藤真一氏は、「DARKSPEED」ドライバーのテクノロジーについて「高い慣性モーメントを維持しつつ、追求しているボールスピード、ヘッドスピードを最大化することによって飛距離を伸ばしていくというテクノロジーになっている」と説明しました。 新製品の紹介で同社担当者は「アインシュタインの一般相対性理論によると光(のスピード)が一番速いが、その光を飲み込んでしまうのが暗闇。暗闇は光を超えるぐらいのスピード、速くて見えないという意味を込めて、テーマを『DARK』」にしたと「DARKSPEED」シリーズのテーマについて話しました。 テクノロジー面では「エアロダイナミクス」「パワーシェルAI H.O.T フェース」「パワーブリッジ・ウェイティング」の“3大テクノロジー”に言及。まず、ヘッド形状の「エアロダイナミクス」について「フェースの中央部とバックフェース後方を上げることにより空気が後ろのほうに流れていくエアロ形状を採用した。空力上、上下対称が良いと言われており、前作以上に上下対称とする改良をおこない、さらに空気抵抗を軽減してヘッドスピードを最大化できるよう、空気の渦が出にくいシンプルなソール形状にした」と説明しました。「パワーシェルAI H.O.T フェース」については「フェースの裏側を15カ所に分けてAI(人工知能)を駆使し、15カ所それぞれを最適な厚さに設計。そうすることで、芯を外した際にも飛距離の落ち幅が少ないフェース硬度になり、はじきの良いフェースになっている」と解説。 続いて「パワーブリッジ・ウェイティング」について「空気抵抗を軽減する『エアロダイナミクスのテクノロジー』を採用したことでハイバックのヘッド形状となり、空力が良くなった半面、デメリットとして重心が上がってしまった。そのデメリットを解消するのが『パワーブリッジ・ウェイティング』で、ヘッド内部に配置するパワーブリッジウェイティングシステムを前作よりも低く、フェース寄りに配置することに成功し、フェースとソールそれぞれから浮いた状態で装着することで、低重心を実現した」と説明しました。 この3大テクノロジーにより、ヘッドスピードを最大化して、速いボール初速と、すぐれた打感をもたらすことができるそうです。 579ヤードという驚異的な飛距離を記録したこともあるというスペシャルゲストの世界ドラコン王者カイル・バークシャーと、YouTubeでもおなじみの進藤大輔さんによるトークセッションでは、進藤さんが「(カイル・バークシャーのスイングが見られるということで)イベント本番前からアドレナリンが出っ放し」というくらい興奮していたと話し、カイル・バークシャーは、イベント前の練習中、6番アイアンでシミュレーションゴルフのネットを突き破ったと語りました。 デモンストレーションではカイル・バークシャーが「DARKSPEED」のクラブで試打をおこない、8番アイアンで240ヤード、3番アイアンで313ヤード、3Wで355ヤード、コース用のドライバーで383ヤードと驚異的な飛距離を生むスイングを見せてくれました。 デモンストレーション中、会場では驚きの声や歓声が上がり、カイル・バークシャーのスイングにくぎ付けとなっていました。 ※ ※ ※ 今回発表された「DARKSPEED」シリーズは、2024年3月9日発売を予定しています。【DARKSPEED LS ドライバー】ツアーにインスパイアされた構いやすいシェイプで、低スピンによる抜群の飛距離性能と性格なショットを可能にプロフィル: 超絶ハイスピードローンチ角: 低いスピン: 低い弾道: ニュートラルからフェード慣性モーメント: 中ロフト角: 8.0°, 9.0°, 10.5°【DARKSPEED X ドライバー】低スピンで速いボール初速を求めるプロからアマチュアまで幅広いゴルファーのために設計。大きな慣性モーメントで高い寛容性も両立し、高い飛距離性能に、ミスヒットでも寛容な安定性を実現。プロフィル: 超絶二刀流ローンチ角: 中スピン: 低い弾道: ニュートラル慣性モーメント: 高いロフト角: 9.0°, 10.5°, 12.0°【DARKSPEED MAX ドライバー】スピン量を抑える低スピン設計による飛距離性能と、COBRA史上最大級の慣性モーメントにより、高い寛容性を実現。プロフィル: 超絶ハイドロー MAXやさしさローンチ角: 高いスピン: 中弾道: ニュートラルからドロー慣性モーメント: 超高いロフト角: 9.0°, 10.5°, 12.0°e!Golf編集部
コブラがジョンソンとして生活している間は、変な言葉遣いをするメイドロボットのベンに扮していた。 ..
アヴドゥルの生体探知機
イギーの変身能力
花京院の法皇の結界
ジョセフの波紋×ハーミットパープル
そして承太郎の時止めだ
DIOの館突入してから急にみんな本気を出すぞ
建畠:「絵画の嵐」は、フランス側に全面的に協力してもらって、コブラのテキストもアンフォルメルのテキストもフランス人に頼みました。僕は具体について書きました。アンフォルメルは、シルヴァン・ルコンブル(Sylvain Lecombre)という、当時パリの市立美術館のキュレーターで、その後、ザッキン美術館(Musée Zadkine)の館長になった人です。コブラは、詩人で美術評論家のジャン=クラランス・ランベール(Jean-Clarence Lambert)です。2本ともフランス語でテキストが出てきたんです。今思えば、和訳は松浦寿夫に頼んだんです。まだ院生だったんじゃないかな。2本のテキストがフランス語だったので、僕のテキストもフランス語にすることになりました。アンフォルメルもコブラも、どちらかと言えば、フランス語がメジャーな文化の中での運動ですからね。特にコブラはそうです。
ここは狂気の世界だ、みんなおかしいんだ。 : 鋼鉄の握手2nd
建畠:パリでも評判悪いのよ、値切るというので。でも大富豪でしたね。その人はベルギー出身でした。ベルギーだからコブラということもあったんだろうけど、若い頃にどこの国に行くかで、アフリカか南米に行くかというので、冗談でコインをはじいたら、南米と出たので南米に来て、そこで起業して成功したという人でしたね。この人は日本にもよく来て、カリグラフィーが好きだから、京都で森田子龍のカリグラフィーを買ったりしていました。具体、コブラ、アンフォルメル、それぞれリサーチの懐かしい思い出がいろいろありますね。まあ、「絵画の嵐」展は、タブロー集団としての具体という、具体美術の再評価のきっかけにはなったと思いますね。僕はそれで突っ走ったけれど、もちろんそれは対抗的な見方であって、彦坂的な具体観を全面的に否定しているわけではないですよ。ただ彼らは、大作・タブロー主義によって堕落したというけれど、作品を見てないよね、実際には。まあ少しは見ていただろうけど。でも、そのベストの時期の山村コレクションに入っているようなものや、初期の0会時代の、いま芦屋に入っているようなドローイング類という、画家としての仕事は、その時代にはたぶん紹介されていなかった。だから、限られた資料の中では無理のない偏見だったのかもしれないけど。画家集団としての具体というヴィジョンは、僕は今も変わっていませんね。そういうことを正面から持ち出したという意味では、多少、先駆的な意味があったかもしれないね。
建畠:メインのテキストは少なくともバイリンガルでした。ほとんど英語ですね。特別展に関しては、必ずバイリンガルにしていました。林道郎的に言えば、日本のカタログのバイリンガルは、英語でも読める、意味は分かるというのに過ぎないんだよ。ちゃんとした英語のテキストは日本では作れない。英文のチェックができないんですよ。体裁の問題とか、プルーフリーディングの問題も含めて、日本で完全にバイリンガルの本を作るのは難しいでしょうね。だから、意味が大体分かる程度のものでしょうね。この時にはすでにバイリンガルにするのは一般的だったと思います。全ての展覧会というわけではないけれども、メインの展覧会については、なるべく英語と両方にしていたと思います。詳細に調べないと分からないけどね。
「大人しくお縄に付きなさい、、、、、、コブラ!」 コブラ、お縄に付きなさい. (コイツは参ったな、、、). あばよ、お嬢さんがた!
建畠:カラカスにコブラの大コレクターがいると。カラカスってどこの国だという感じだったのね。とにかく行っちゃおうって、何も知らないで、カラカスに行ったの。カラカスにはシモン・ボリバル・センター(Simon Bolivar Centre)というのがあって、そこに近代美術館が入っているのね。そこで、スタイヴェンベルグ(Karel van Stuijvenberg)というオランダ出身のコレクターのコブラのコレクション展をやっているというので見に行ったのね。これは不思議な経験でした。ベネズエラというのは、しょっちゅうクーデターが起きている国ですよね。たまたま僕の兄の友達のベネズエラ人がベネズエラの反政府ゲリラで、パリに留学した後に日本に来ていたのね。彫刻家なんだけどさ。それで、家に泊めていたんですよ。ところが、そうこうしているうちにクーデターが起きて、彼のセクトが勝ったわけね。で、彼は、突然ゲリラから、若いんだけども、芸術学校の学長に迎えられて戻っていった。しばらくしたら、またクーデターが起きてゲリラに戻っちゃったという人なんだけど(笑)。僕が行ったときはゲリラに戻っていたけど、飛行場に迎えに来てくれたのよ。車を運転してくれたんだけど、ボンネットに自動小銃が置いてあるわけ。見えるところに。「え、何で」って言ったら、「お前、武器というのは、一番目立つところに置かなきゃ意味がないんだ。やったらやりかえすんだ。だから常に一番目立つところに置いておく」と言う。だから、銀行に行くと、手元に拳銃が置いてあるんだよね(笑)。そういう物騒な国でしたが、彼の車で最初にシモン・ボリバル・センターに行った。そうしたら、スタイヴェンベルグが来ていて、一緒に展覧会を見た。展覧会だから100点くらいしかないわけですよ。で、「何点持っているんだ」と言ったら「500点持っている」と言う。「見せてほしい」と言ったら、「見せてもいいよ」って。「どこにあるんですか」と聞くと、「全部家だ。家にかけてある」と言うんだ。500点が。不思議なことを言うなと思った。500点も掛けてあるって。それで、彼が車を運転して、途中ステーキハウスに寄って、こんな15cm四方くらいの立方体のステーキを食べた(笑)。それで着いて、家だよって言うから、ふと見上げたら赤坂離宮みたいな家なんだよ(笑)。表階段がずっと20段くらいあって、上はもう紫の霞がたなびいている。「えー」って感じで2人で歩いていくと、家のご主人を迎えに来る人が、両側に八の字に並ぶわけですよ。10人くらいずつ。家に入ると500畳くらいの3階吹き抜けの広間が、第一の間、第二の間、第三の間とあって、もう全部コブラなんだよ。もう5段掛け、10段掛けで掛っているのね。
斉藤:これは山のチェスです。片瀬和夫さんって言うのかな、あと10人位の日本人が招待されて。ホートンの大きなゲレンデ、敷地に何かやったんですね。その時(註:1983年、「ドイツで学び、仕事をしている19人の日本人作家展」、ゼーシュターン彫刻公園)。
決め手はクラブ性能と有能なフィッター/コブラと契約したマックス・ホマ:前編 ..
建畠:たしか展覧会予算が5千万で、購入予算が5千万。購入予算が今は2億円くらいになっていますけど。その5千万というのは、どの美術館も同じなんだけど、他の美術館は新聞社との共催を入れるのが普通なのね。年に1本特別展があって、自主企画として、研究成果を発表するんだけど、他の美術館は、それ以外に新聞社との共催が入るわけですよ。それでブロックバスター展をやるんです。国際美術館は、たまにNHKや日経新聞と共催をすることはあったけども、新聞社の共催がほとんど入らないんですよ。新聞社も、「こんな人の入らないところ」と言うんです。だから、5千万の予算の範囲内でいろいろやらなくちゃいけないのね。普通は特別展に5千万をかけられるのに、それを5つくらいに割って、我々の自主企画だけで埋め尽くすということをしていた。少ない予算でゲリラ的というと変ですが、なるべくお金がかからないような形で先鋭なつっぱった展覧会をやっていたという感じかな。それなりにやってきて、記憶に残っている展覧会もあります。自分が直接関わったものでいうと、一番印象に残っている展覧会は、「絵画の嵐・1950年代 アンフォルメル/具体美術/コブラ」(1985年)。アンフォルメルと具体は密接な関係がありましたし、コブラもアンフォルメルとほぼ同時代の動向で、宮島さんが詳しかったんです。1950年代の絵画としては、ここには、アメリカのニューヨーク・スクールの抽象表現主義が抜けていますが、それはそれで1本やろうと思っていたのね。とにかくアンフォルメルと具体、そして、アンフォルメルと多少関わりのあるコブラ――アレシンスキー(Pierre Alechinsky)は両方に関わっていますから――で、50年代の表現主義の展覧会をやろうということになった。最初、英語のタイトルは「Action and Emotion」とつけたんですね。最終的にはフランス語で「Action et Emotion」となったんだけど、日本語のタイトルも「行為と感情」にしようと思ったのよ。今だったら、つっぱってそのままにしたと思うんだけど、館長から、よく分からない、そんな小難しいタイトルをつけたらダメだって言われて、それもそうかなと思ったのね。それで、いろいろ考えたんだけど思いつかなくて、「絵画の嵐・1950年代」という、いささかださいタイトルになったんです。
ところで、この直前に、具体のコレクションに触れて驚いたということがありました。山村コレクションです。山村(徳太郎)さんが、東京画廊の介在でミシェル・タピエ(Michel Tapié)のところに送られた具体のコレクションを買い戻すんですね。トリノにあったものが中心なんですが。それが山村家に置いてあって、家の中や車庫にきっちり詰めてあった。そのとき尾崎(信一郎)くんが阪大の院生で、木村(重信)さんに言われて、山村さんのアシストをしていたんです。それで、夙川の山村家に行って、尾崎くんにも来てもらって、車庫の中から次々と庭に出して写真を撮ってチェックしたのね。で、驚いたんですよ。あまりのクオリティーの高さに。それまで言説としては知っていました。彦坂(尚嘉)さんや千葉(成夫)さんの言説として、具体は初期において、環境芸術とかパフォーマンスとかコンセプチュアリズムといった前衛的な萌芽があったにも拘らず、タピエとの接触によって、大作・タブロー主義へと収斂していて、初期にあった問題が矮小化されてしまったと、その頃、通説のように言われていたのね。タピエに迎合したアンフォルメルの時代と。だから初期の具体が重要だと言われていた。ところが、これを見てアンフォルメルの時代の作品のクオリティーに驚いたのね。特に田中敦子。これは衝撃的な経験でしたね。尾崎くんがちょうどその頃に卒論か修論をアンフォルメルで書いていた。彼は特権的な立場にいて、山村コレクションのタブローの分析をしていた。2人で話し合ったことなんだけども、極論すれば、初期にあった様々なコンセプチュアリズムや環境芸術的な萌芽がタピエとの接触によってアンフォルメルへと矮小化されていったというよりは、むしろ初期の実験がタブローへと収斂していったと考えるべきじゃないかと思った。様々な実験がそこでタブローへと収斂していって、結果的に、国際的に言っても抽象表現主義に匹敵するような、戦後美術の中で最も優れた絵画空間、ものすごいクオリティーの高い達成を遂げたんではないかというふうに、あえて対抗的に問題をたてた。もちろん両方あるんだよ。二つの見方が。オール・オア・ナッシングじゃないと思うけど、少なくとも大作タブロー主義によって具体が矮小化されていったというのは明らかに違うのね。これは後からいろんな形でフォローされていく。「1953年ライトアップ」展(1996年、目黒区美術館)とか。彼らはもともと画家集団で、基本的には具体の作家はみんな画家なんですよ。0会の人たち、つまり田中敦子、金山明、村上三郎、白髪一雄という人たちは、タピエと触れ合うことによって彼らは転身したというよりは、具体に参加する以前の作品――小さなタブローだったりドローイングだったりするんだけども――において、もうすでに大作・タブローの時代に実現していることを、より純粋な形で完璧に実現しているんです。でも、このときは、アンフォルメルの時代のタブローを見て、具体の評価、すでにパフォーマンス集団としての評価は非常に高かったけど、タブロー集団としての評価を確立しなきゃいけないという使命感みたいなものはありましたね。それで、具体のリサーチをすると同時に、パリに飛んで今井俊満とかいろんな人に会って、アンフォルメル運動を調べました。スタジオ・ファケッティ(Studio Paul Facchetti)とか、拠点になった当時の画廊も調べました。もう閉まっちゃったけど、特にスタドラー(注:スタドラー画廊。Galerie Stadler)に協力してもらって、タピエにも会いに行きました。タピエは少しアルツハイマーになりかけていて、満足な会話は交わせなかったのは残念でしたが。
口外禁止条項を盛り込む場合は、同時に違約金条項を設ける場合もあります。この場合、違約金を支払う義務が生じます
示談の趣旨に反する行為をしたことを理由に、受け取ったお金を返還するよう求められてしまう可能性があります
ついでに、先ほど話に出たコブラ EVO DBのジオメトリーを書いておきます。 ..
ザ・コブラがリングに立った。彼の正体はジョージ高野だった。プロレスマニアだった僕はすでに彼の存在を雑誌では知っていたし、それなりに有望な若手でマニアの中で知名度もある、期待のホープだった。
「なるほどな」はおかしいやろ。 安藤: しゃーない、しゃーない ..
「虚の玉座」に(誰か得体の知れない存在が)座っただけで(コブラはまだ何一つ理解できていない状況だというのに)、なぜ「誰かの一存で世界を動かす事などゆるされない!!!」という話になるのでしょうか。別に目の前で「世界を動かす」行動をとってみせたわけでもないのに、そんな感想に至りますかね。。
これって変?フランス人のウェイターは、外国人に何度も何度も「何 ..
建畠:直結していると思いますね。批評の御三家が現代美術を領導した時期は非常に長いんですね。彼らが20代でスタートした50年代から、たぶん国際美術館ができる70年代頃までの間は、完全に批評の御三家の時代だった。彼らは圧倒的な影響力を持っていた。キュレーターでもあったしね。美術館でも様々な展覧会をやってきています。中原さんの「人間と物質」とか、東野さんの「1970年8月」(注:「1970年8月 現代美術の一断面展」(1970年))とか。針生さんも独特のスタンスで現代美術に関わっていました。3人とも、現場も領導していたし、圧倒的な求心力を持っていたと思いますね。
もちろん、そのとき、上の世代には河北倫明とか土方定一という巨匠がいて、それぞれ美術館に依拠しながら、大きな影響力を発揮していた。どちらかというと、土方定一は在野的なスタンスを保っていた。特に彫刻に大きな影響力を発揮したと思う。河北倫明さんは近代日本画、近代洋画に非常に大きな影響力を持っていた。だから、美術館の力がなかったわけではないけれど、現代美術の現場はもっぱら批評の御三家だったですね。宮川淳さんは現場に参加してなかったけど、次の世代の峯村(敏明)さんや藤枝(晃雄)さんもキュレーター的なスタンスをある程度持ちながら展覧会をやっていました。ただ、国際美術館ができた頃から次々美術館ブームが始まりました。新設された公立美術館は、現代美術を一つの柱にするわけですよ。消去法というのはあるでしょうね。もう美術史美術館は作れないだろうから。公立美術館はどこも、その地域の美術と国際交流を柱にしています。
美術館は、作品を購入し、展覧会をやり、カタログを作り、シンポジウムをやり、広報・宣伝もやります。しかも、組織として動くからね。その求心力は、批評に比べれば圧倒的に強いし、作家にとってみても、これほど重要な組織はないわけですよ。だって、自分の作品買ってくれて、個展をやってくれて、カタログを作ってくれて、シンポジウムをやってくれて、トーク・ショーもやってくれて、ポスターもチラシもばらまいてくれるんだよ。僕は、「企業城下町」と言っているんです。画廊もこっちを向くからね。美術館を中心に企業城下町ができたことが、批評が領導する時代を崩壊させていった一つの大きな理由だと思いますね。それから、批評の御三家の3人は、大きな求心力を持つ才能と文筆力とキャラクターの持ち主だったんでしょうね。藤枝さんにしても、峯村さんにしても、宮川淳さんにしても、良し悪しはともあれ、彼らのような政治力を持ち合わせなかったんだろうね。それでも、峯村さんは現場で結構がんばったけれど、でもあの3人のスタンスとはちょっと違ったかな。峯村さんと藤枝さんって、性格的に非常に過激なのよ。ある意味では旗幟鮮明といってもいいけどね。対極的な方向ですが、その存在自体がアグレッシヴという意味では似ているよね。僕らにとっては直前の世代で、当初は両方とも親しかった。学ぶことは非常に多かったし、彼らのラディカルな言説とか先鋭さというか、プロブレマティックなあり方自体も僕は重要だと思っているんです。だけど、状況の中の存在感という意味では、御三家の持つ政治力にとって変わることはなかったですね。
その後、批評的な状況が実態として崩壊していきますよね。現場としては、美術館が求心力を持つようになるし、批評誌がなくなっていく。テキストの場所がカタログに移っていくからね。僕も、国際美術館の学芸員時代、毎月のように『美術手帖』――BTになる前ぐらいかな――に原稿を書きまくったんだけど、途中からカタログが多くなるんですね。国際美術館以外の他の美術館のカタログも頼まれた。多摩美大時代は新聞に展評を書くことはよくあったし、今でもありますけども、美術批評誌に書くということはもうあまりないよね。インタヴューを受けたりとか、短いコラムを書いたりとか、そういうのはあるけど、本格的な評論を頼まれることはまずなくなった。今は単行本か、美術館のカタログか、アカデミックなものに限られてきましたね。でも、メディアが変質していくのは、ニワトリとタマゴみたいなものでさ。批評誌がなくなっていくことも含めて、美術館の存在が大きかったと思うんですね。ただ、これについては多少後から批判的なことも言わなくちゃいけないと思いますけども。
みんな必死に食いついてきた。 コブラを平和にやる方法はなかなかない。 03.12.24 ..
建畠:そうですね。この当時は5本くらいの展覧会をやるのが一般的ですね。万博会場にあって交通の便が悪くて、多くの観客動員が期待できないのね。ただ、不思議な場所で、アングル展やゴッホ展をやると大量の人が来る。アングル展はおかしかったね。NHKと共催でやったんだけど、うちは現代美術館と思われているから、アングルって「角度」だと思ってきた人がいて(笑)、面白い展覧会をやってますねって言われたね。まあ、アングル展とかゴッホ展のときは、大量の人が来るんですよ。どうしてかというと、すごく不便なんだけども、逆に言うと、交通の便が日本で一番いいところなのよ。つまり、飛行場からも、高速道路のインターチェンジからも、新幹線からも、阪急・京阪からもアクセスできるあらゆる交通の要所なの。だから万博のときに1日20万人という人を確保することができたんだよ。大量交通機関で国際的なアクセスもできるっていう場所で、日本で一番交通の便がいいところなんですよ。ところが、万博が終わって最後のアクセスが全部断たれちゃったわけ。周辺までは行けるんだけども、あと2キロで断たれちゃっているんだよね。ところが、大量観客の展覧会をやると、断たれたところの交通機関が回復するんですよ。バスがピストン輸送する。だから、ブロックバスター展をやると東京の会場よりもたくさん入るんです。東山魁夷展をやったときは、東近美でやった展覧会がうちに巡回したんだけど、東近美よりうちの方が入館数が多かったのね。そういうような不思議な場所でもありました。でも、一般的には不便この上ない。周辺まで来れるんだけども、最後のアクセスができない。あまり人が来ない。その頃は、日本の財政も良かったし、高度成長も真っ盛りで、あまりうるさくなかったのね。地方にある国立美術館の入場者がどうでも。大蔵省も別にどうでもいいよみたいな感じで、文化庁もあまり気にしていなかった。まあ勝手にやったらみたいな感じで、それをいいことにして、結構、先鋭なつっぱった現代美術の展覧会をずっとやってきましたね。孤立した中で。そのときは、一種のかぐわしさというか端然とした姿勢を示したというふうに、我々内部では思っていました。外部からどう見えたかは知らないけどね。国立美術館としては、現代美術の先鋭な方向性でがんばっているというイメージはあったかもしれないね。
を 観に行ってきました。 あれ??おかしいな 2回目・・・。 べっ ..
斉藤:彼ら、《ワイン・チェス》をやって本当に酔っぱらって。おもしろかった。取った場合には相手のワインを飲み干さないといけないから。この時はそうしたんです。そうしたらワインを飲む事の好きな人が若い人で。後で酔っぱらって本当に大変で(笑)。
「上沢が悪者になっているのはおかしい」波紋を呼ぶ上沢直之のソフトバンク移籍に ..
なぜなら、1人の人間が週刊連載で何十年も面白い作品を(世間とのズレを生む事なく)描き続けることなど、そもそも不可能だからです。肉体的に困難なのはもちろん、作者1人の感覚で何百万人という読者の感覚とズレることなく、質の高い作品を描き続けることなどできるはずがないのです。
日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ/建畠晢インタヴュー2
建畠:僕は学芸員として15年間いたので数多くありますね。僕が直接携わったもの、メインのキュレーターだったり、アシスタント・キュレーターだったりしたものでは、まず「イスのかたち デザインからアートへ」(1978年)。これは宮島久雄さんがチーフ・キュレーターでやった展覧会です。宮島さんはデザイン史を専門の一つにしていますからね。これは、近代、現代のイスのデザイナーの作品を揃えると同時に、現代美術の中でのイスの表象を扱った展覧会です。例えば、岡本太郎の《座ることを拒否するイス》とか、草間彌生のペニスの生えたイスとかですね。倉俣史朗なんかもそうですね。現代作家が、イスそのものを作ったり、イス的な表象をしたりしているので、そういったものを集めた。イスのデザイン展としてやったんだけど、デザインとアートの境界領域を模索した点では先駆的な意味があったかもしれないね。それから、「現代の作家1 田渕安一 湯原和夫 吉原英雄」(1978年)で、僕は田渕安一(田淵安一)を担当しました。フランスに行って出品交渉をしたり、1人のアーティストの個展をしたという点では印象に残っていますね。あと、「近代イタリア美術と日本 作家の交流をめぐって」(1979年)。これは村田慶之輔さんが中心になってやった展覧会で、僕はアシスタントをやりました。この頃は、交流史という館の目的が生きていたので、「どこそこと日本」という展覧会を何回かやっているのね。「絵画のアール・ヌーボー、ヨーロッパと日本」(1980年)とか、「現代ラテン・アメリカ美術と日本」(1981年)とか。これは国際美術館の独特の視点でやっています。必ずしも全面的に成功したとは思わないですが。ただ、「近代イタリア美術と日本」は、そうした交流と同時に、アルテ・ポーヴェラの作品をまとめて日本で紹介した最初の例かもしれないね。イタリアに一、二度行ってリサーチしながら、もう死んでしまったけれど、イオレ・デ・サンナ(Jole de Sanna)というブレラ美術館の美術史家・評論家や、ルチアーノ・ファブロ(Luciano Fabro)、長沢英俊さんと接しながら、いろんなことを学びましたね。それまでのイタリアの知識というのは、例えば彫刻で言えば、マリノ・マリーニ(Marino Marini)とかジャコモ・マンズー(Giacomo Manzù)といった、日本でもよく紹介されていたメジャーの巨匠たちだったんだけど、そのリサーチの中で初めてアルテ・ポーヴェラの感化に触れました。それは、ジャスト・コンテンポラリーであると同時に、アルテ・ポーヴェラの人たちの歴史観、例えばバロック時代のキリコとか、メダルド・ロッソ(Medardo Rosso)の決定的な意味とか、多くのことを学びましたね。それが如実に展覧会に反映されるほど勉強はできなかったけれど、特にファブロや長沢さんから、ちょうど起ころうとしていた新しい歴史主義みたいなもの、ポストモダンに繋がっていくようなものを学んだ気がします。「まがいものの光景 現代美術とユーモア」(1980年)は、小規模ですが、僕が独り立ちして初めてやった展覧会です。英語だとSimulated Landscapeというタイトルなんです。シミュレーショニズムという言葉がまだない時代だったけども、今考えてみれば、シミュレーショニズムを先取りしたようなところがあったかもしれないね。日本の作家ですが、草間彌生とかいろんな人たちを集めて、ユーモアの光景であると同時にキッチュでもあり、シミュレーション・アートでもあるような、独特の発想でやった展覧会で、かなりの観客動員をしたし、ジャーナリズムの反響も大きかったですね。ただ、毀誉褒貶という感じだったかな。キッチュの価値は、その頃まだ美術館レヴェルでは承認されていないときだったので、反発を感じる人もいました。自分としては先鋭にやったつもりですね。「絵画のアール・ヌーボー ヨーロッパと日本」は、宮島さんの専門の展覧会で、僕はアシスト的に入りました。これも宮島さんらしい発想で、工芸の文脈でおさえられていたアール・ヌーヴォーの概念を絵画に導入して、もう一度そのサンボリスムを捉え直すという、面白い企画だったと思います。企画には関わっていないけれど、「河原温 連続/非連続 1963-1979」(1981年)は強烈な印象が残っていますね。
みんな画家なんですよ。0会の人たち、つまり田中敦子、金山明、村上三郎 ..
そのズレを正すのが編集者の役割であり、作品の質を維持するためには編集者の客観的視点が不可欠だというのに、全く機能していないことが露骨に作品に出てしまっており、にもかかわらず原作以外の大量の仕事を振って尾田先生からネームや作画の時間を奪い続け、作品の劣化に歯止めがきかない状況を進行させているため、その点を指摘して批判をしているわけです。